1555年、安芸国・厳島(宮島)を舞台に、毛利元就と陶晴賢が激突した「厳島の戦い」。
この戦の鍵を握ったのが 陶晴賢の本陣「塔の岡」 と、毛利方が敢えて築いた 「宮尾城」 でした。
■ なぜ厳島が戦場になったのか
大内氏を実質的に支配していた陶晴賢は、主君・大内義隆を討った「大寧寺の変」を起こして権力を掌握します。
しかしその行動に強く反発したのが、義隆の縁戚であった 毛利元就 でした。
以後、山口を中心とする陶氏と、安芸の新勢力・毛利家が中国地方の覇権を争う構図へと発展していきます。
■ 毛利元就が築いた「宮尾城」
元就は陶軍が圧倒的に大軍(約20,000)であることを知りつつ、あえて厳島へ誘い込む策略に出ました。
その象徴が、島北部に急造した 宮尾城。
● 宮尾城の目的
- 陶晴賢に「落とせば毛利が終わる」と思わせる
- 島という狭い地形に敵大軍を押し込める
- 毛利軍(3,500〜4,000)による奇襲ルートを準備する
宮尾城は“守るため”ではなく“敵を誘い寄せるため”の罠。
晴賢はこれにまんまと引っかかり、大軍を率いて厳島へ上陸します。
■ 陶晴賢の本陣「塔の岡」
陶軍の上陸地点は厳島北側。
宮尾城を攻めるため、晴賢はその南側の高台 塔の岡 に本陣を構えます。
● 塔の岡の地形的特徴
- 厳島北部を見渡す丘陵
- 宮尾城へにらみを利かせる位置
- ただし背後は山が迫り、逃げ道が限られる
この「背後に山を背負う」弱点が、のちに毛利の奇襲を受けて致命傷となります。
■ 毛利軍、暴風雨の中「包ヶ浦」へ上陸
1555年10月1日未明。
暴風雨に隠れながら、毛利元就の主力は島東側の 包ヶ浦 に上陸します。
そこから山中の細い尾根道——
博打尾根(ばくちおね)
を越えて、陶晴賢本陣の背後へ回り込みました。
毛利軍は陶軍に気づかれないまま、最も弱い“背後”から塔の岡へ突撃する態勢を整えます。
■ 毛利軍、塔の岡を急襲
夜明けとともに毛利軍は突撃を開始。
- 山上から塔の岡へ雪崩れ込む毛利本隊
- 鳥居側から攻める小早川隆景の別動隊
二方向からの挟撃により、陶軍は完全に混乱します。
狭い島内では大軍を思うように展開できず、優勢な兵力を活かせないまま崩れ落ちました。
陶晴賢は大江浦まで敗走しますが、そこで自刃。
陶氏の栄光はここで終わります。
■ 厳島の勝利が意味したもの
陶晴賢の死により、大内氏は急速に衰退。
毛利元就はこの勝利を足がかりに、中国地方の覇者へと成長していきます。
“塔の岡と宮尾城”
──この二つの場所が、戦国史を大きく動かしたのです。
■ まとめ:もし現地を歩くなら
- 宮尾城跡
元就が仕組んだ「誘い込みの城」。厳島合戦の発端となる舞台。 - 塔の岡跡
陶晴賢の本陣。ここから宮尾城を攻め、そして毛利の奇襲を受けた。
島の中でこの2地点を行き来すると、
「なぜ毛利が勝てて、なぜ陶が敗れたのか」という戦場の構図が体感できます。



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